2013(平成25)年度の市史展示は、『成田市史研究第37号』に掲載された聞き取り調査「長谷川興成(はせがわ おきまさ)さんに聞く-子どもの目が見た戦中戦後の成田町-」で触れている、父・長谷川朋慶(はせがわ ともよし)さんが撮影した写真をご紹介します。約70‐80年前の激動の時代の成田町を、一人の青年の視点でとらえた貴重な写真資料となっています。また、当時の成田町のできごとなどを関連資料や写真を合わせて展示しました。
昭和のはじめ、個人でカメラを所有することは大変な贅沢でした。大多数の人にとって写真は、人生の節目に写真館に行って撮ってもらうものでした。現在では珍しくないスナップ写真ですが、この時代の家族写真は当時の暮らしぶりを知ることができる歴史資料です。
長谷川朋慶さんは数台のカメラを持っていたため、ガラス乾板や今では使われていないさまざまな規格のネガが混在した状態で、ご子息の長谷川興成さんの手元に残っていました。
今回の展示にあたり、興成さんは父・朋慶さんが撮影した写真について、マウントを手作りしてスキャナーにかけるなど、さまざまな工夫を凝らしてデジタル化し、全面的にご協力くださいました。
これらの写真は、撮影年がはっきりしている、撮影場所や被写体が特定できる、当時を記憶している方からお話を伺って情報を補足できるなどの好条件が重なりました。『成田市史研究第37号』で掲載できなかった聞き取り後の解説について、『成田市史研究第38号』でご紹介する予定です。
お気付きの点や新しい情報がございましたら図書館までお知らせくださいますようお願いいたします。
写真は語る ‐長谷川朋慶氏が写した戦時中の成田町‐
最終更新日 2014年06月27日
展示期間 : 12月から05月
展示場所 : 本館2階展示
※展示コーナー右側に、「展示資料リーフレット」をご用意いたしました。ご自由にお持ちください。
展示資料リーフレット【サイズ:1.4メガバイト】
長谷川朋慶(はせがわ ともよし)さん
1912(大正元)年に成田町本町の碧玉堂印房に生まれる(現在の長谷川晴文堂)。彫師として成田山新勝寺の印鑑などを手掛けた。写真を趣味とし数多くの写真を残す。1944(昭和19)年9月に出征し、1945(昭和20)年8月戦没。
1912(大正元)年に成田町本町の碧玉堂印房に生まれる(現在の長谷川晴文堂)。彫師として成田山新勝寺の印鑑などを手掛けた。写真を趣味とし数多くの写真を残す。1944(昭和19)年9月に出征し、1945(昭和20)年8月戦没。
長谷川興成(はせがわ おきまさ)さん
1938(昭和13)年成田町に長谷川朋慶の長男として生まれる。長じてエンジニアとなり、鉄道にも造詣が深く、各種鉄道雑誌にも寄稿する。成田山霊光館所蔵の成宗電気軌道の模型も手掛けた。
1938(昭和13)年成田町に長谷川朋慶の長男として生まれる。長じてエンジニアとなり、鉄道にも造詣が深く、各種鉄道雑誌にも寄稿する。成田山霊光館所蔵の成宗電気軌道の模型も手掛けた。
成田幼稚園の制服は1935(昭和10)年4月に制定され、戦時中の物資不足で自然消滅した(『成田幼稚園創立百周年記念 撫子たちの一世紀』)ということだが、この写真からは1944(昭和19)年時点でもトレードマークの白いエプロンをつけ、男の子はお揃いの制帽をかぶっていたことがわかる。右から2番目が長谷川興成さん(1944(昭和19)年撮影)。
お正月 自宅前の成田山参光協会前で記念写真(1943(昭和18)年撮影)
成田山参光協会は一千年祭の際に観光振興を目的として1932(昭和7)年7月に設立された。現在でいう観光協会のような組織。興亜会授産所は、出征軍人の家族の生活の安定をはかるため設置された作業所。長谷川朋慶さんは後列の一番左端。
成田山参光協会は一千年祭の際に観光振興を目的として1932(昭和7)年7月に設立された。現在でいう観光協会のような組織。興亜会授産所は、出征軍人の家族の生活の安定をはかるため設置された作業所。長谷川朋慶さんは後列の一番左端。
成田山開基一千年祭
1938(昭和13)年、当時の成田町は成田山新勝寺の開基一千年祭一色であった。1935(昭和10)年に一千年祭奉修事務局が設置され、3年がかりで準備が行われ、東京と大阪の歌舞伎座での記念公演、全国各地での記念展覧会など、大々的な広報が行われた。
時節柄、『事変色を盛って』(読売新聞)の開催となったが、長谷川さんの写真からは戦時中でありながら華やかな衣装やユーモラスな張りぼてで仮装していた様子がわかる。
時節柄、『事変色を盛って』(読売新聞)の開催となったが、長谷川さんの写真からは戦時中でありながら華やかな衣装やユーモラスな張りぼてで仮装していた様子がわかる。
昭和19年の祇園祭
1944(昭和19)年の祇園祭については、いままで資料が確認されておらず、開催されなかったのではないかとも考えられていた。写真の裏に1944(昭和19)年7月7日と書き込まれていたことで大きな発見となった。
戦争
長谷川さんは、出征する人がいると聞くと、成田町のみならず周辺の村へも出かけて行って、写真を撮って贈っていた。当時写真は気軽に撮れるものではなかったので、非常に喜ばれたという。
戦地からの絵葉書
父(慶)と興成さんへ宛てた手紙(全てカタカナで書かれているが、漢字と句読点と入れ表記した)
・宛て先 千葉県成田町谷津 長谷川慶 様 オキマサドノ
・差出人 中支派遣呂第五三九四部 佐久間隊 長谷川朋慶
・文面
興成に別れてからもうどのくらいになるか、まだ勘定ができないだろう。この手紙が着く頃には、興成も学校へ行くようになるでしょう。
一日も早く、字を覚えて、父ちゃんのとこへ便りをください。
おじいちゃんやおばあちゃんに教えていただいて勉強しなさい。そして越子や稀子をよく見てやりなさい。今にいろいろのことを書いてあげるから待っていなさい。
・宛て先 千葉県成田町谷津 長谷川慶 様 オキマサドノ
・差出人 中支派遣呂第五三九四部 佐久間隊 長谷川朋慶
・文面
興成に別れてからもうどのくらいになるか、まだ勘定ができないだろう。この手紙が着く頃には、興成も学校へ行くようになるでしょう。
一日も早く、字を覚えて、父ちゃんのとこへ便りをください。
おじいちゃんやおばあちゃんに教えていただいて勉強しなさい。そして越子や稀子をよく見てやりなさい。今にいろいろのことを書いてあげるから待っていなさい。