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芥川龍之介生誕120年 龍之介とふさの国

最終更新日 2013年03月01日

展示期間 : 07月から11月

展示場所 : 本館2階展示

展示全体図
芥川龍之介生誕120年 展示の様子
芥川龍之介と言えば、あの、細面で特徴のある風貌が思い浮かびます。子どもの頃に絵本で、あるいは教科書で芥川の作品と出会ったという方も多いのではないでしょうか。
大正文学を代表する作家であり、夏目漱石の最晩年の弟子でもある芥川が生誕し、今年で120年。35歳という若さで、自らの生涯を閉じた芥川。亡友芥川龍之介の名を記念するとともに、自らが主宰する「文芸春秋」の発展をねらい、菊池寛が、1935(昭和10)年に創設した「芥川賞」は、最も権威ある文学賞として現在も存在しています。
時代を超えて、今も多くの人々を惹きつけている芥川の作品や生涯を、ふさの国(千葉県)とのかかわりを中心にご紹介します。

1、香取秀真(かとりほつま)


香取秀真
香取秀真
龍之介の作品や日記にたびたび登場する「香取秀真」とは、東京・田端での芥川家の隣人で、印旛郡船穂村(現在の印西市)出身の金工作家で歌人でもあります。
龍之介の作品『田端人』では、香取秀真は「お隣の先生」として登場します。
「お隣の先生のご寿命のいや長に長からんことを祈り奉る。」の後には、「香取先生にも何かとご厄介になること多し。時には叔父を一人持ちたる気になり、甘つたれることもなきにあらず。」と記していて、とても心を寄せている様子がうかがえます。また、「僕は先生と隣り住みたる為、形の美しさを学びたり。(略)何ごとも僕に盗めるだけは盗み置かん心がまへなり。」とも綴っています。芥川は、入手した印を押捺して香取に判読の教示を求めるなどしていて、香取は、18歳年下の芥川に芸術上の大きな影響も与えました。

香取秀真(本名 秀治郎)
1874(明治7)年 - 1954(昭和29)年。
金工作家。歌人。古代金工の研究者。印旛郡船穂村船尾(現印西市)に生まれる。
1881(明治14)年 佐倉町(現佐倉市)麻賀多神社神官郡司秀綱の養子となる。
1897(明治30)年 東京美術学校鋳金本科卒業。
1899(明治32)年 正岡子規に教えを受ける。
1903(明治36)年 東京美術学校の鋳金史授業嘱託となり、以後1943(昭和18)年まで在職。
1929(昭和4)年 帝国美術院となる。
1933(昭和8)年 東京美術学校教授となる。
1953(昭和28)年 文化勲章を受章。
1954(昭和29)年 1月6日、新年歌会召人として宮中に参内する。
1954(昭和29)年 1月31日 没

香取秀真は、金工家としてのほか、金工史に関する学術的な著書も多く、さらに、正岡子規門下の歌人としても著名でした。

2、不動様(成田山新勝寺)を訪れる


「佐原行」
「佐原行」は、芥川18歳、東京府立三中卒業の頃、1910(明治43)年3月に、水郷・潮来を友人と訪れた際に綴ったと思われる紀行文です。汽車の停車時間を利用し、成田山見物をしています。

「汽車が成田でとまる。佐原ゆきは乗りかへだ。下りると、停車場の前に大きな浅田飴の広告が立つている。佐原ゆきの出るには一時間半ばかり間があるので、不動様を見にゆく。」(略)
「そこそこに境内を出て停車場へひきかへす。栗羊羹を十銭で一本づゝかふ。汽車の中でくひながら佐原へつく。」

芥川青年は、当時の参道の様子や境内の描写を、辛口でかなり詳しく書き残しています。  
「佐原行」は『芥川龍之介未定稿集』(岩波書店刊)に収録されています。 

「銚子行」
この一年前の、1909(明治42)年3月末頃には、中学の友人である山本喜誉司(後に芥川婦人となる文の叔父)らと銚子に遊び、砂山に寝ころんで海を楽しんでいます。
「銚子行」は『芥川龍之介未定稿集』(岩波書店刊)に収録されています。 

3、芥川龍之介の手紙


芥川龍之介の手紙
芥川龍之介の手紙
芥川龍之介は35年の生涯の中で、おびただしい数の手紙を書いています。
芥川龍之介研究者によれば、芥川書簡は確認できるものだけでも、1700通を越えているといいます。誰もが携帯電話を持つ現代とは違い、日常のコミュニケーションの伝達・通信手段として手紙は欠くことができないものであったにしろ驚きの数です。

芥川は、一宮に2度滞在しています。一度目は1914(大正3)年7月20日‐8月23日、東京帝国大学2年に進級する年、一高時代の友人堀内利器(一宮 町出身)に誘われ、堀内の親戚にあたる渡辺家でひと夏を過ごしました。二度目の滞在は、大学を7月に卒業した直後の1916(大正5)年8月17‐9月2 日、久米正雄とともに、一宮館の離れに滞在しています。ここでは、2度目の一宮滞在中に書かれ、芥川書簡のなかでも特に有名な2通をご紹介します。

芥川荘と文学碑
芥川荘と「芥川龍之介文学碑」
大正5年の晩夏、芥川はこの離れから、師である漱石や塚本文へのプロポーズの手紙を書き送っている。

未来の妻への恋文
1916(大正5)年8月25日、芥川は、塚本文に宛て、率直に求婚の手紙を書いています。

「文ちゃん。
僕は、まだこの海岸で本を読んだり原稿を書いたりして暮らしています。」の書き出しで始まるプロポーズの手紙には「貰いたい理由は、たった一つあるきりです。そうして、その理由は、僕は文ちゃんが好きだと云う事です。勿論、昔から好きでした。今でも好きです。その他に、何も理由はありません。(略)兎に 角、僕が文ちゃんを貰うか貰わないかと云う事は、全く文ちゃん次第できまる事なのです。僕から云えば、勿論承知して頂きたいのには違いありません。しかし、一部一厘でも文ちゃんの考えを無理に動かすような事があっては、文ちゃん自身にも、文ちゃんのお母さまやお兄さまにも、僕がすまない事になります。 (略)
僕のやっている商売は、今の日本で一番金にならない商売です。(略)うちには、父、母、伯母と、としよりが三人います。それでよければ来てください。
僕は、文ちゃん自身の口から、かざり気のない返事を聞きたいと思っています。繰り返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです。 それでよければ来てください。(略)一宮はもう秋らしくなりました。木槿の葉がしぼみかかったり弘法麦の穂がこげ茶色になったりしているのを見ると、心細 い気がします。僕がここにいる間に、書く暇と書く気とがあったら、もう一度手紙を書いてください。」 

この時、芥川24歳、文は16歳の女学生でした。二人は、この年の12月に婚約し、大正7年2月に結婚しています。

芥川荘
1916(大正5)年8月17日‐9月2日まで、芥川と久米が滞在したホテル一宮館の離れ。
現在でも、長生郡一宮町、一宮館の敷地内に「芥川荘」と名付けられ修復保存されている。

師である夏目漱石に宛てた手紙
1915(大正4)年12月、芥川は久米正雄とともに、早稲田南町の漱石山房を訪れ、その門下生となり、木曜会(談話会)に出席するようになりました。芥川と夏目漱石 との直接のかかわりは、翌大正5年12月の漱石の死までの、ちょうど一年という短い期間でしたが、その間に発表した作品『鼻』を漱石に激賞され、芥川は、 鮮やかに文壇にデビューしました。
つぎの手紙は、塚本文への求婚の手紙を書いた3日後、文学上の師である夏目漱石に宛てた手紙です。

1916(大正5)年8月28日付
「先生
また、手紙を書きます。さぞ、この頃の暑さに、我々の長い手紙をお読みになるのは、ご迷惑だろうと思いますが、これも我々のような門下生を持った因果と御あきらめ下さい、その代わり、お返事のご心配には及びません。先生へ手紙を書くと云う事がそれ自身、我々の満足なのですから。
今日は、我々のボヘミアンライフを、少しご紹介致します。今居る所は、この家で別荘と称する十畳と六畳と二間つゞきのかけはなれた一棟ですが、女中はじめ 我々以外の人間は、飯の時と夜、床をとる時との外はやつて来ません。これが先、我々の生活を自由ならしめる第一の条件です。我々は、この別荘の天地に、ねまきも、おきまきも一つで、ごろごろしています。来る時に二人とも時計を忘れたので、何時に起きて何時に寝るのだか、我々にはさつぱりわかりません。何しろ太陽の高さで、ほぼ見当をつけるんですから、非常に「帳裡(ちょうり)日月(じつげつ)長(ちょう)」と云う気がします。(略)
海へは、雨さえふっていなければ、何事を措いても入ります。ここは波の静かな時でも、外よりは余程大きなのがきますから、少し風がふくと、文字通りに、波濤きょう湧します。(略)
我々は海岸で、運動をして盛に飯を食っているんですから、健康の心配はいりませんが、先生は、東京で暑いのに、小説をかいてお出でになるんですから、そうはゆきません、どうかお体を御大事になすって下さい。(略)
先生は少なくとも我々ライズィングジェネレエシヨンの為めに、何時も御丈夫でなければいけません」

一宮滞在中、この手紙の前にも、芥川と久米はそれぞれ漱石に便りを出していて、二人への1916(大正5)年8月21日付の漱石の返信では、「君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積りであなた方の将来を見ています。どうぞ偉くなって下さい。然し無暗にあせつては不可ません。たゞ牛のやうに図々しく進んで行くのが 大事です。」
3日後の1916(大正5)年8月24日付の書簡では、「此の手紙をもう一本君らに上げます。(略)牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、 牛には中々なり切れないです。(略)世の中は根気の前に頭を下げる事を知つていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。(略)牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。」
と、若き二人を新世代の有望な作家と見なし、心からの助言をしています。そして、この手紙を書いた4ヶ月後の1916(大正5)年12月に漱石(享年49)は亡くなっています。

4、「海のほとり」

初出『中央公論』1925(大正14)年9月。三章の構成。大学卒業直後の1916年晩夏に久米正雄と千葉県・一宮海岸に遊んだ時の体験をもとに、海のほとりでの一日が、私小説風に描かれています。 芥川と久米の2人は、1916(大正5)年8月17日から9月2日まで、一宮町の一宮館の離れに滞在しました。作品が発表されたのは、一宮滞在から9年後のことです。芥川が久米正雄と海水浴を楽しんだ一宮海岸は、今では、サーフィンを楽しむ若者たちのメッカとなっています。

久米正雄
1891(明治24)年‐1952(昭和27)年、長野県生まれ。 小説家・劇作家。芥川の一高以来の友人。芥川は自決に際して、『或る阿呆の一生』の原稿を託し、「恐らくは誰よりも僕を知っていると思うからだ。」と言い、発表の時と機関とを一任しています。



一宮海岸
一宮海岸

5、「三つの宝」


三つの宝(展示本は復刻本)
三つの宝(展示本は復刻本)
芥川龍之介の唯一の童話集。『白』『蜘蛛の糸』『魔術』『杜子春』『アグニの神』『三つの宝』の6作を収録。

巻頭の、序文は芥川ではなく、佐藤春夫によるもので、その「序にかえて」の中で、佐藤は芥川が「この本の出るのを楽しみにしていた」と記しています。
この本の共同製作者であり、挿絵を担当した小穴隆一の「跋」(あとがき)によれば、二人がこの本の計画を始めたのは、刊行の3年以上前であり「一つの卓子(テーブル)のうえにひろげて、縦からも横からも みんなが首をつっこんでよめる本がこしらへてみたかった」からだといいます。大判で、とても贅沢な作りとなっているこの作品ですが、そこには、3人の幼子を持つ父親としての芥川の暖かい心情が感じられます。
芥川の死の1年後、1928(昭和3)年6月の刊行。

佐藤春夫
1892(明治25)年‐1964(昭和39)年。詩人・小説家・評論家。和歌山県生まれ。芥川龍之介の文学上の友人。

小穴(おあな)隆一
1894(明治27)年‐1966(昭和41)年。洋画家。芥川の友人。二人の親しい交わりは、芥川の死に至るまで続いた。

『三つの宝』の序文を本人(芥川)に代わって記している佐藤春夫は、晩年、芥川龍之介を次のように論じています。
「自分は大正という時代を、明治のやうな大きな時代とは思はないが明治に蒔いて置いたさまざまなものを取り入れて、明治だけの大きさはないにしても、質的にはなかなか軽蔑出来ない好い時代と思っている。さういふ時代を代表するには谷崎や菊地よりも寧ろ芥川が一番ふさはしいやうな気がするのである。あの精巧に俊敏で最新式な感銘を与へる小形な芥川の文学がである。
佐藤春夫による「芥川龍之介論」1949(昭和24)年・9『文藝』抜粋


6、「羅生門」

芥川龍之介の第一創作集。装丁は芥川自身が行い、中扉には「夏目漱石先生の霊前に献ず」の献辞が添えられています。収録作品は『羅生門』『鼻』『孤独地獄』『芋粥』『虱(しらみ)』『手巾(はんけち)』など 14編。24歳で書いた作品がほとんどであり、同人誌に一度発表したものにすべて手を加え、収録しています。1917(大正6)年5月刊。

羅生門(展示本は復刻本)
羅生門(展示本は復刻本)

7、芥川と千葉の海


 大川端で育った龍之介は、大川(現在の隅田川)の、夏場に開設される日本遊泳協会の水練場で、同級生たちと一緒に水泳の鍛錬をしています。今でいうスイミングスクールに通い水泳を習ったわけですが、どのぐらい上手に(河童のように?)泳げたのでしょう。少年のころに何度か訪れている勝浦、20代前半では、2度も、ひと夏を一宮海岸で過ごしています。 
芥川は、一高時代からの友人井川恭に宛て、次のように水と戯れる喜びや一宮の印象を書き送っています。

浪は高いが海へはいるには苦にならない もう大分黒くなった。
東京へは九月の初旬にかえる その頃君も出てくるだろう。
一の宮の自然はroughな所がいいDuneなんぞアイルランドのものにかいてあるやうなのがある 夕方は殊にいい

砂にしる日のおとろへや海の秋

1916(大正5)年8月21日(年月推定)

rough 荒々しい
Dune 砂丘

一宮海岸
一宮海岸