『成田の地名と歴史‐大字別地域の事典‐』は、新成田市誕生を契機とし、市域のさまざまな歴史的資料を旧町村別・時代別・大字別にまとめ、主な人物・遺跡・施設等を50音順に掲載し事典形式をとった新しいスタイルの地域誌です。
皆様には図書館1階・2階参考資料室でご覧いただければ幸いです。
また、最新資料の一部を併せて展示しますので、お気付きの点や新しい情報がございましたら図書館までお知らせくださるようお願いいたします。
表紙を飾った村絵図 ‐2011年市史資料展示‐
最終更新日 2016年11月08日
展示期間 : 10月から06月
展示場所 : 本館2階展示
今回の展示にあたり、吉岡三郎さん、篠原春雄さん、山田泰美さん、石橋武明さん、長沼区、長田区より資料の提供・ご協力をいただきました。
※展示コーナー右側に、「いくつ読めるかな?成田の地名クイズ」をやっています。
「展示資料リーフレット」と、「『成田の地名と歴史-大字別地域の事典-』の案内パンフレット」を併せて置きました。ご自由に取ってご覧ください。
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『成田の地名と歴史-大字別地域の事典-』案内パンフレット【サイズ:535キロバイト】
表紙になった村絵図
1、佐倉七牧絵図 (吉岡三郎家文書 年代不詳)
佐倉七牧は江戸時代の幕府直轄の広大な牧場である。佐倉牧は印旛郡・香取郡地方を中心とするもので、北から油田牧・矢作牧・取香牧・内野牧・高野牧・柳沢牧・小間子牧の七つで、これを佐倉七牧と呼んでいた。
本図には油田牧を除く六牧が見られ、成田市域に関する牧は内野牧・取香牧・矢作牧の三牧である。図には、下総国・上総国の国境を示す線と、街道を示す線が引かれている。
内野牧には2つの道が見られ、上が成田道、下が滑川道(香取道)である。それぞれ道の両側には並木が描かれている。
成田道の途中には「一里塚」、滑川道には「船塚ト云舟ノ形ニ似タ塚ト云」という記載があり、後者は赤坂公園内にある市内最大の船塚古墳と考えられます。また、矢作牧にも滑川道が見える。
本図には油田牧を除く六牧が見られ、成田市域に関する牧は内野牧・取香牧・矢作牧の三牧である。図には、下総国・上総国の国境を示す線と、街道を示す線が引かれている。
内野牧には2つの道が見られ、上が成田道、下が滑川道(香取道)である。それぞれ道の両側には並木が描かれている。
成田道の途中には「一里塚」、滑川道には「船塚ト云舟ノ形ニ似タ塚ト云」という記載があり、後者は赤坂公園内にある市内最大の船塚古墳と考えられます。また、矢作牧にも滑川道が見える。
図中にみられる地名は次のとおりです。原則として、江戸時代の村名が現在の大字となっている。
飯仲村、大袋村、江弁須村、下方村、台方村、船形村、八代村、山口村、公津新田(米野)、郷部村、成田村、畑田村、川栗村、小菅村、西吉倉村、東吉倉村、駒井野村、野毛平村、取香村、堀内村、長田村、東金山村、和田村、赤荻村、芦田村、西泉村、東泉村、小泉村、大室村、吉岡村、前林村、一坪田村、横山村、馬乗里村、南敷村、桜田村、所村
飯仲村、大袋村、江弁須村、下方村、台方村、船形村、八代村、山口村、公津新田(米野)、郷部村、成田村、畑田村、川栗村、小菅村、西吉倉村、東吉倉村、駒井野村、野毛平村、取香村、堀内村、長田村、東金山村、和田村、赤荻村、芦田村、西泉村、東泉村、小泉村、大室村、吉岡村、前林村、一坪田村、横山村、馬乗里村、南敷村、桜田村、所村
2、長沼村絵図(長沼区有文書 1750(元文5)年9月)
長沼は、長沼村・磯部村・荒海村・芦田村・新妻村・宝田村・北羽鳥村と境を接し、約250haの瓢箪型の大きな沼であった。この沼の名前「長沼」が、村の名前の由来となっている。
図の左側が前沼、右側が後沼と呼ばれ、フナ・エビ・ウナギなどが獲れ人々の生計を支えた。前沼は1934から1936(昭和9から11)年に干拓が行われ、後沼は1943年に干拓が着工された。戦後も断続的に干拓が実施され、事業の完了は1972年であった。
長沼区には、かつてこの地が沼であったこと示す貴重な絵図が残されているうちの一枚である。図のほぼ中央の山が現在の「長沼市民の森」(長沼城跡)である。
江戸時代、長沼村は幕府に一定の年貢を納め沼の占有権を得ていたが、漁猟権や入会権をめぐって、周辺の村々と訴訟問題までに発展した。これを長沼事件という。村民の運動により1900(明治33)年3月に無償払い下げを受け長沼村の所有となったが、解決に尽力したのが地元の小川武平と福澤諭吉であった。
図の左側が前沼、右側が後沼と呼ばれ、フナ・エビ・ウナギなどが獲れ人々の生計を支えた。前沼は1934から1936(昭和9から11)年に干拓が行われ、後沼は1943年に干拓が着工された。戦後も断続的に干拓が実施され、事業の完了は1972年であった。
長沼区には、かつてこの地が沼であったこと示す貴重な絵図が残されているうちの一枚である。図のほぼ中央の山が現在の「長沼市民の森」(長沼城跡)である。
江戸時代、長沼村は幕府に一定の年貢を納め沼の占有権を得ていたが、漁猟権や入会権をめぐって、周辺の村々と訴訟問題までに発展した。これを長沼事件という。村民の運動により1900(明治33)年3月に無償払い下げを受け長沼村の所有となったが、解決に尽力したのが地元の小川武平と福澤諭吉であった。
3、長田村絵図 (長田区有文書 年代不詳)
絵図に描かれている民家の場所は、航空写真(昭和42年撮影)の中央やや左下にあたる。南側は東西に取香川が流れ小菅村との村境を形成し、東側は堀之内村、北西部と西側は野毛平村と接する。 現在の地図に重ねると、絵図のほぼ中央部をJR成田線・新高速鉄道が横断している。絵図に残る集落は、成田空港建設に伴いA滑走路の直下になったため、北東約500m前後の地点に集団移転した。したがって現在の地図には、旧長田地区の集落は無くなっている。
長田村は資料によれば、1594(文禄3)年の検地帳に「香取郡大須賀庄長田村」とあり、中世には村として成立していたと考えられる。佐倉七牧の一つ矢作牧の野付村として、1799(寛政11)年の野馬捕では、勢子人足として56人が割り当てられ、日常的に農作業のかたわら牧の管理に借り出された。1839(天保9)年の家数24軒、人口127人である。
長田村は資料によれば、1594(文禄3)年の検地帳に「香取郡大須賀庄長田村」とあり、中世には村として成立していたと考えられる。佐倉七牧の一つ矢作牧の野付村として、1799(寛政11)年の野馬捕では、勢子人足として56人が割り当てられ、日常的に農作業のかたわら牧の管理に借り出された。1839(天保9)年の家数24軒、人口127人である。
新資料の展示
1、歌誌『金鈴』と「いちご」
『金鈴』は、1923(大正12)年4月から、1930(昭和5)年5月までの間に11冊刊行され、行方沼東によって発行された歌誌で、頁数は平均35頁。「いちご」は沼東が1927(昭和2)年5月に発行した四六版の歌誌である。同人である石原江里が不動ヶ岡のいちご園を訪れる人に配ったもの。いずれも2010(平成22)年に、山田泰美氏より合本1冊が寄贈され、成田における大正末期から昭和初期にかけての短歌活動を知る上で貴重な資料である。
『金鈴』は、当時成田自動車株式会社(千葉交通株式会社)に勤めていた沼東と山内淑村が発起人となり、沼東の友人石原江里と山田清吉が同人として参加した。沼東は歌人前田夕暮の門下、山内淑村は与謝野晶子調の歌を作り、石原江里は窪田空穂の門下、山田清吉はアララギ調の短歌を好んだ。同人のほか、吉植庄亮が創刊・4・7号に短歌を、窪田空穂が7号に地方同人雑誌の感想を、青木健作が3・6号に成田時代の思い出を、木村荘太が8号に山岳特集の原稿と、著名な人の作品も掲載された。
『金鈴』は、当時成田自動車株式会社(千葉交通株式会社)に勤めていた沼東と山内淑村が発起人となり、沼東の友人石原江里と山田清吉が同人として参加した。沼東は歌人前田夕暮の門下、山内淑村は与謝野晶子調の歌を作り、石原江里は窪田空穂の門下、山田清吉はアララギ調の短歌を好んだ。同人のほか、吉植庄亮が創刊・4・7号に短歌を、窪田空穂が7号に地方同人雑誌の感想を、青木健作が3・6号に成田時代の思い出を、木村荘太が8号に山岳特集の原稿と、著名な人の作品も掲載された。
2、磯部・石橋家文書
石橋家文書は磯部の石橋武明家に伝えられる古文書で、1687(貞享4)年から1879(明治12)年までの377点の資料が残る。
文書は江戸時代の証文類が多数を占め、土地証文類、酒造についての書付、無尽講などの記録がある。石橋家(茂兵衛)は磯部村の名主や長百姓を務め、百姓一同と交わした証文の控えも残されている。当時、村の有力者であったことが窺える。
文書は江戸時代の証文類が多数を占め、土地証文類、酒造についての書付、無尽講などの記録がある。石橋家(茂兵衛)は磯部村の名主や長百姓を務め、百姓一同と交わした証文の控えも残されている。当時、村の有力者であったことが窺える。
1)1831から1839(天保2から10)年の無尽講の記録
無尽講とは金銭を融通しあうための民間互助組織のこと。資料は会合の「五会目」から「十一会目」までのうち、六会分の記録である。一、二年に一度、ほぼ同じ月に会合が設けられ、30両や50両を集金している。既刊の通史や資料集を参考に人名を見ると、茂兵衛とともに名を連ねている人物には、飯岡村の大河平兵衛、土屋村の石原文四郎、西大須賀村新川の成尾清左衛門がいる。
大河と石原は、幕末佐倉藩に調達金としてそれぞれ1,500両・8,300両もの金額を上納しており、成尾は明治17年に利根川に通運丸が航行する際、西大須賀から宝田間に和船を運航する広告を出している人物(家)である。いずれも地域の富裕層で、石橋茂兵衛もこのような有力農民と交流していたと考えられる。
大河と石原は、幕末佐倉藩に調達金としてそれぞれ1,500両・8,300両もの金額を上納しており、成尾は明治17年に利根川に通運丸が航行する際、西大須賀から宝田間に和船を運航する広告を出している人物(家)である。いずれも地域の富裕層で、石橋茂兵衛もこのような有力農民と交流していたと考えられる。
2)1818(文化15)年の済口証文
済口(すみくち)証文とは訴えを起こした後で和解が成立したとき、役所へ提出した証文のこと。
名主茂左衛門らの土地に5名の百姓が境杭を勝手に打ったことで訴訟が起き、数年後示談が成立。この事を代官へ届け出た済口文書の控えである。
示談の際の取り決めは、相手(一部)の百姓5名のみならず、村の百姓全体に対し団結を制限するものであった。下作年貢(小作料)は地主と下作人が一対一で決めること、寄合や休日などは村役人の指示がなければ勝手に行ってはならないこととしている。
背景には、土地や力を持った村役人層と、大勢の小前一同との対立があり、小前一同の不満がこの事件となって表れたと考えられる。
名主茂左衛門らの土地に5名の百姓が境杭を勝手に打ったことで訴訟が起き、数年後示談が成立。この事を代官へ届け出た済口文書の控えである。
示談の際の取り決めは、相手(一部)の百姓5名のみならず、村の百姓全体に対し団結を制限するものであった。下作年貢(小作料)は地主と下作人が一対一で決めること、寄合や休日などは村役人の指示がなければ勝手に行ってはならないこととしている。
背景には、土地や力を持った村役人層と、大勢の小前一同との対立があり、小前一同の不満がこの事件となって表れたと考えられる。
3、「髙岡縣」と書かれた小箱
高岡藩士の子孫岡村家に伝わる箱で、篠原春雄氏所蔵の資料である。外箱の大きさは縦24.5㎝、横10㎝、高さ3.3cm、内箱の側面中央部に紐を通す孔が穿たれている。そして外箱中央部やや下に「髙岡縣」と墨で書かれている。調査時、箱の中には高岡藩発行の文書など4つの文書が納められていたが、高岡県当時の文書はない。
高岡県の誕生と房総
1871(明治4)年7月14日、中央集権国家建設を目指し廃藩置県が実施され、旧高岡藩を引き継いだ高岡県が誕生した。同年11月、第1次府県統合により房総の地には印旛県・木更津県・新治県の三県に統合され、高岡県など11県が新治県の管轄になる。設置期間はわずか4か月であった。既刊の通史や資料集にも、高岡県についての記述は殆んど見ることができない。小箱は高岡藩当時のものと考えられるが、高岡県の証を示す数少ない資料といえる。
高岡県の誕生と房総
1871(明治4)年7月14日、中央集権国家建設を目指し廃藩置県が実施され、旧高岡藩を引き継いだ高岡県が誕生した。同年11月、第1次府県統合により房総の地には印旛県・木更津県・新治県の三県に統合され、高岡県など11県が新治県の管轄になる。設置期間はわずか4か月であった。既刊の通史や資料集にも、高岡県についての記述は殆んど見ることができない。小箱は高岡藩当時のものと考えられるが、高岡県の証を示す数少ない資料といえる。