資料名森田草平書簡 鈴木三重吉宛 明治42年11月18日
著者名森田草平
出版者
作成年1909(明治42)年11月18日

書き下し文

封筒表

下総国成田町 鈴木三重吉様

封筒裏

牛込早稲田南町七 先生代理 森田米松 十一月十八日

本文

拝啓

いつぞやは失敬、あの時一寸話のありし文学欄難産ながらいよいよ新設する事と相成り此廿五日から開始すること成り申候、少し間に合はぬかも知れぬが拙作(ママ)を尊んだ方が難産のあとだから可かろうと存候、朝日予算の都合から小生が臼川の役目と島田運平氏の役を兼ねざるを得ざる場合と成り申候間何卒此処充分に御尽力を乞ふ、最初は先づ内側定連の顔を並べたしと存候 兄のものは三日目位にのせたくと存候間、評論、小品文と其外何たるを問はず、目先の変わったものにて、三重吉の特色を発揮せるものを廿五日以前に寄せ下されたく候 真様御取かゝりに預り度願上候

余は御(一字削除)面にかゝりて上

  十一月十八日   艸平

 三重吉兄

解題

森田草平も夏目漱石門下生である。草平は東京朝日新聞の「朝日文芸欄」の編集にあたっていて、鈴木三重吉に同欄への寄稿を依頼してきた書状がこれである。「朝日文芸欄」は、夏目漱石の主宰により1909(明治42)年11月25日に新設された。

しかし、この寄稿依頼に三重吉が応じなかったのは、すでに『小鳥の巣』の準備に取り掛かっていて、あまり余裕が無かったためであろう。 なお、漱石は1907(明治40)年に東京朝日新聞社から招聘の話を持ち込まれたため、1907(明治40)年3月に東大と一高に辞表を出し、5月に入社した。第一作は『虞美人草』であったが、その脱稿後まもなく、終焉の地、早稲田南町7番地に転居している。

(山本侘介 事務局にて一部加筆)

NSIN(書誌ID)DL20101000060
種別書簡
細目巻紙・封皮共
ページ数1枚
大きさ(縦×横)外寸(26cm×116cm),本紙(18cm×89cm)
資料群名鈴木珊吉氏寄贈の鈴木三重吉資料
目録番号19
撮影年月日2012/09/12
掲載枚数 1 枚
備考
所蔵成田市立図書館
分類915.6
件名鈴木三重吉
森田草平
件名(成田)成田市-鈴木三重吉
キーワード(成田)
地域コードN
郷土分類956