資料名森田草平書簡 鈴木三重吉宛 明治43年2月29日
著者名森田草平
出版者
作成年1910(明治43)年2月29日

書き下し文

封筒表

下総国成田町 鈴木三重吉様

封筒裏

早稲田南町七 艸平 明治四十三年二月廿九日

本文

拝啓

「鳥の巣」につきては屡々臼川からも伝聞して居る、もう準備の上に手落ちも有るまいが、只身体のつゞく事と、最后までやりのける意思の旺盛ならん事をのみ祈って居る

書いた結果については小生は楽観して居るから別に云はない。然しいよいよ出たら一日一日(二字削除)たのしみ見て気がついた事があったら云って見るつもりだ。先づそれ迄は御自愛をいのる。『煤煙』はあんまり長引いたので、少々作者自からも出版にあいて居た併し装釘を気に入ったと云ってくれたのは君ばかりだ、大に助かった。

青木君とは一面の識もないが、一二度書面を往復した。同氏が手紙をくれた(ママ)で今回はがきを出したが、あの君の極端に対して僕も極端を云ってやった。真理は中庸にあるのだらう。とにかく、編輯に当って居ると、彼方へも此方へもわるい事があって、人知れぬ苦心がある。よろしく云ってくれ玉へ。

 草平

 三重吉兄

解題

森田草平も夏目漱石門下生である。これは草平から鈴木三重吉へ、『小鳥の巣』の連載に対し激励の書状である。いよいよ『小鳥の巣』の連載が間近の交信で、東京の仲間たちが待ち受けているのが窺える。

草平の『煤煙』刊本は、出版社が官憲の検閲を恐れてなかなか実現しなかった。「青木君」とあるのは青木(本姓、井本)健作である。東大哲学科を卒業し、鈴木三重吉よりほぼ1年遅れて、1909(明治42)年11月から同じ成田中学校に着任し、修身、英語を教え、1915(大正4)年3月まで在職した。三重吉の影響で雑誌『帝国文学』『ホトトギス』『東亜の光』などに作品を発表し、1912(明治45)年に読売新聞に連載した『お絹』が出世作となった。

現在、成田高等学校の校庭には、当時の教え子たちによって1957(昭和32)年11月23日に建てられた「宿借るや更けて鴨啼くいんば沼 健作」の自筆句碑がある。

(山本侘介 事務局にて一部加筆)

NSIN(書誌ID)DL20101000090
種別書簡
細目巻紙・封皮共
ページ数1枚
大きさ(縦×横)外寸(26cm×162cm),本紙(18cm×136cm)
資料群名鈴木珊吉氏寄贈の鈴木三重吉資料
目録番号20
撮影年月日2012/09/12
掲載枚数 1 枚
備考
所蔵成田市立図書館
分類915.6
件名鈴木三重吉
森田草平
件名(成田)成田市-鈴木三重吉
キーワード(成田)
地域コードN
郷土分類956