資料名森田草平書簡 鈴木三重吉宛 明治42年6月25日
著者名森田草平
出版者
作成年1909(明治42)年6月25日

書き下し文

封筒裏

下総国成田中学ニテ 鈴木三重吉殿

封筒裏

森田草平 六月廿五日

本文

あの後時々君に逢ひたいと思ふ。逢ひたいと思ふのは僕のinnermostのselfが逢ひたいと思ふのだ。表面の滓が逢ひたいと思ふんぢゃないだからひとり頬杖をついて考へ込んだ時、又は書物を読み差して伏せた時に逢ひたいと思ふのだ。君の顔が浮ぶのだ。いや顔ぢゃない、声だ、声が一番僕の頭に深い印象を留めて居る。小宮は頻に君に書け書けと云って迫る相だ

迫る人も一人は無くちゃならぬ、僕は待つ人に成らう、君が書くまで待たう、お互いに命さへ有りや書かずには置かないぢゃないか。書かないで――書くことを忘れて、それで尚ほ生きて居られる人間でないと三重吉を信ずるから僕はあわてない。

僕は君を恐れて居る――innermostのselfが云ふのだ――これだけは記憶して置いていてくれ玉へ。天下を見渡して然る後云ふのだ。

小宮はsudden jump(一字削除)をやった。彼は実際偉く成った。但し未だ草平を恐れしむるに至らない。一通り好い頭を持って漱石先生の側に居れば、あの位偉く成らなきや義理が悪いや。只彼は最も若い、精神的に若い、ウエルデンの人間だ。どうかして何日迄も固定させたくない。 いつかの女ね、あれは全く好い女だ、何だか僕が発見したのでなく君から譲られたやうだから、ほれたいのをがまんして未だ惚れないで居る。        以上  米松    

 鈴木兄                                                    秀峰君に宜しく云ってくれ玉ヘ

解題

森田草平も夏目漱石の門下生で、これは草平が三重吉の創作を心配している書状である。米松は草平の本名。

1905(明治38)年の暮頃から夏目漱石の家に、寺田寅彦、森田草平、小宮豊隆、松根東洋城、野上臼川、それに鈴木三重吉たち門下生たちが毎週木曜日の夜集まって談話した。世に言う「木曜会」である。この仲間の中でも三重吉は、草平や豊隆とは特に親しく交わった。草平が漱石のはからいで東京朝日新聞に連載(1909(明治42)年1月1日から5月16日)した『煤煙』で、作家としての名声を挙げた時期である。

(山本侘介 事務局にて一部加筆)

NSIN(書誌ID)DL20101000050
種別書簡
細目巻紙・封皮共
ページ数1枚
大きさ(縦×横)外寸(26cm×158cm),本紙(18cm×132cm)
資料群名鈴木珊吉氏寄贈の鈴木三重吉資料
目録番号18
撮影年月日2012/09/12
掲載枚数 1 枚
備考
所蔵成田市立図書館
分類915.6
件名鈴木三重吉
森田草平
件名(成田)成田市-鈴木三重吉
キーワード(成田)
地域コードN
郷土分類956