資料名 | 赤尾兜子書簡 三橋鷹女宛て 1968(昭和43)年8月7日 |
著者名 | 赤尾兜子 |
出版者 | |
作成年 | 1968(昭和43)年8月7日 (消印 昭和43年8月7日) |
書き下し文
(表面)
武蔵野市吉祥寺北町四丁目一三の二八
三橋鷹女様
〈押印〉「658 神戸市東灘区御影町上ノ山一六九〇 電話〇七八(81)〇七六〇
赤尾兜子」
(裏面)
御鄭重な御見舞有難う存じました。「俳評」を退かれたこと高柳からおぼろ気に聞き、たいへん残念に存じております。しかし私が年少にして意識した鷹女という作家のイメージは、そういうことで微動だにしておりません。「俳評」のほか私は「渦」を持っており、少くとも「渦」人には、とくに女流には、あなたのことをいつも先達として教示しております。こんごとも御鞭撻下さいますように。上京の節、一度御伺いしたいと存じております。御自愛下さい。
解題
このはがきは、右手親指を負傷した赤尾兜子宛の三橋鷹女の御見舞状への感謝の念と、『俳句評論』を退会した鷹女への思いとをしたためた兜子の鷹女宛書簡である。兜子の右手親指の負傷は、兜子の主宰誌『渦』42号(1968(昭和43)年5月30日発行)の「後記」によれば、「四月七日、自宅で右手拇指に全治一ヵ月の傷を負った。手だけですまず、全身に三週間ほど悪寒をともなう倦怠がつづき、それで思考がとまってしまった。」とある。鷹女はこの「後記」を目にして、御見舞状を出したと思われる。
鷹女が『俳句評論』同人を辞したのは1967(昭和42)年で、「現代俳句協会」も退会している。その理由は、前年に胃下垂による慢性胃炎で1ヶ月入院した後も通院するという体調不良と、1967(昭和42)年の3月に夫が老齢のため歯科医院を廃業するという家庭状況の変化とが重なって、俳句にも空白状態が続いたからだと思われる。鷹女の『俳句評論』退会は明確には同人たちに伝わらなかった。はがきの文面に「「俳評」を退かれたこと高栁からおぼろ気に聞き」とあるのは、そうした事情を踏まえたもので、兜子も、大分月日が過ぎた後、高柳重信から鷹女の退会を知らされたのであろう。当時、重信は『俳句評論』の同人代表で、『俳句評論』の編集にも当っていた。
兜子は重信と同じく大正末期生れで、いわゆる戦後派俳人である。鷹女とは『薔薇』『俳句評論』と行を共にしてきたが、兜子にとって鷹女は最も畏敬する女性俳人として意識されていた。
日本の我はをみなや明治節
白露や死んでゆく日も帯締めて
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし
これらの句のように、女性性を強く意識しながらも、それに甘えたり、俳壇に媚びたりしない凛とした独立不羈の鷹女のイメージが兜子の中にはあった。「私が年少にして意識した鷹女という作家のイメージは、そういうことで微動だにしておりません」からはそれが伝わってくる。兜子は神戸に住み、俳誌『渦』を主宰していたが、俳句や俳壇への鷹女の凛とした姿勢を、『渦』の門下、特に女性たちにとっての指標として、日頃、説いていたのであろう。ちなみに、鷹女は、『俳句評論』退会から2年後の1969(昭和44)年には顧問として『俳句評論』に復帰した。
(川名大)
NSIN(書誌ID) | DL20151000120 |
種別 | 書簡(はがき) |
細目 | 状 |
ページ数 | |
大きさ(縦×横) | 14.8cm×10cm |
資料群名 | 三橋鷹女資料 |
目録番号 | 19 |
撮影年月日 | 2014/01/17 |
掲載枚数 | 2 枚 |
備考 | 全体に薄い ヤケ |
所蔵 | 個人所蔵 |
分類 | 915.6 |
件名 | 三橋鷹女 |
件名(成田) | 成田市-三橋鷹女 |
キーワード(成田) | |
地域コード | N |
郷土分類 | 956 |