資料名富澤赤黄男書簡 三橋鷹女宛て 1952(昭和27)年5月29日   
著者名富澤赤黄男
出版者
作成年1952(昭和27)年5月29日 (消印 昭和27年5月29日)

書き下し文

(封筒 表)

都下新宿区柳町二四

三橋鷹女様 侍丈

(封筒 裏)

五月廿九日

吉祥寺一八六

富澤赤黄男

(本文)

 拝啓 □風之候益々御清祥大慶に存じます。

今度貴著「白骨」御恵送に預り、誠に難有く存じます。

かねがね御作品各誌で拝誦致して居りましたが、今般一書におまとめ、美事な装幀と共に御上梓心より御よろこび申上げます。毎日一句々々をしみじみ拝誦致しております。

今後共益々御健吟の程願上げます。先ハ乱筆御礼迄。敬具

五月廿九日     

富澤赤黄男

三橋鷹女様 玉机下

解題

 この手紙は三橋鷹女が富澤赤黄男に句集『白骨』を寄贈したことに対し、赤黄男がお礼の返事をしたためた書状である。『白骨』は1952(昭和27)年3月30日に「鷹女句集刊行会」から発刊された第3句集。鷹女と赤黄男は明治30年代前半生まれの同世代で、共に昭和10年代の俳壇に登場した。鷹女は口語文体を駆使した才気煥発な作風。赤黄男は暗喩とイメージを駆使した詩情豊かな象徴的な作風。2人はそれぞれ個性的で斬新な新風をもたらし、互いに意識しあう存在であったが、戦前も戦後も長い間会う機会がなかった。2人に会う機会が訪れたのは、赤黄男が1952(昭和27)年に創刊した『薔薇』に、高柳重信の慫慂により翌年11月号から鷹女が同人として参加したときであった。

 1939(昭和14)年、所属していた同人誌『紺』が廃刊になった以後、鷹女はいかなる結社誌や同人誌にも所属せず、俳句総合誌『俳句研究』『現代俳句』などに作品を発表してきた。赤黄男の礼状に「かねがね御作品各誌で拝誦致して居りました」とあるのは、そのことを指してのことである。『白骨』には、

 向日葵の大輪切つてきのふなし

 白露や死んでゆく日も帯締めて

 老いながら椿となつて踊りけり

 鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし

 白骨の手足が戦ぐ落葉季

など、いかにも鷹女らしい才気と老いの意識が入り混じった秀句が含まれている。赤黄男はそういう句を読みながら、「毎日一句々々をしみじみ拝誦致しております」としたためたのであろう。

(川名大)

NSIN(書誌ID)DL20151000080
種別書簡(封書)
細目
ページ数
大きさ(縦×横)19.7cm×91cm (封筒20.3cm×8.5cm) 
資料群名三橋鷹女資料
目録番号12
撮影年月日2014/01/17
掲載枚数 2 枚
備考全体に黄ばみ・シミ 封筒に破れ
所蔵個人所蔵
分類915.6
件名三橋鷹女
件名(成田)成田市-三橋鷹女
キーワード(成田)
地域コードN
郷土分類956