資料名『文鳥』 (『国民新聞』に掲載)
著者名鈴木三重吉
出版者
作成年1909(明治42)年11月3日

解題

『国民新聞』1909(明治42)年11月3日 水曜日 6面に掲載されたものである。 

『文鳥』の初出紙。鈴木三重吉が成田中学校(現成田高等学校)勤務時代の作だが、教職の傍らの執筆は困難を伴うものだった。「作家として世に立つまで」には、「十月に『文鳥』を空想で俄拵へ(にわかごしらえ)に書きなぐって、十一月の国民新聞に出した」とあり、短時日のうちに書き上げたことが分かる。国民新聞社の社員となっていた高浜虚子を通じての執筆依頼であった。小宮豊隆宛て書簡1909(明治42)年11月6日には「文鳥については先生の評語を賜はるべきは豫期せざれども、何か言つてゐられたら知らしてくれよ」と書いている。夏目漱石にも同名の随想を書かせた関係もあって、漱石の感想は密かに期待していたのだろう。

内容は、少年時代に従姉の千代と隠れるようにして飼った文鳥を、千代が他へ嫁いでいった後に逃がしたという思い出と、その後も忘れられなかったその白い鳥を飼って、漱石先生にも薦めて飼わせたという随想的作品。漱石の『文鳥』1908(明治41)年6月には、「文鳥は三重吉の小説に出て來る位だから奇麗な鳥に違なからうと思つて、ぢゃ買つて呉れ玉へと頼んだ。(略)三重吉の小説によると、文鳥は千代々々と鳴くさうである。其の鳴き聲が大分氣に入つたと見えて、三重吉は千代々々を何度となく使つてゐる。或は千代と云ふ女に惚れて居た事があるのかも知れない。」と書かれている。「三重吉の小説」とは、短編『三月七日』を改題した『鳥』(1907(明治40)年)のことである。成田在住時代(1908(明治41)年10月から1911(明治44)年4月)以後、『小鳥の巣』、『赤い鳥』、『瓦』、『民子』、『黒血』などに、浪漫的シンボルのように描かれ続けた小鳥は、単に「空想」の所産ではなく、幼少時からの体験が背景にあったのである。

(星野光徳)

NSIN(書誌ID)DL20131000070
種別新聞
細目1枚物
ページ数1枚
大きさ(縦×横)55.0×39.2cm
資料群名鈴木珊吉氏寄贈の鈴木三重吉資料
目録番号7
撮影年月日2012/09/12
掲載枚数 1 枚
備考『国民新聞』1909(明治42)年11月3日 水曜日 6面
所蔵成田市立図書館
分類913.6
件名鈴木三重吉
件名(成田)成田市-鈴木三重吉
キーワード(成田)
地域コード9N
郷土分類866