佐倉惣五郎と宗吾信仰

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最終更新日2003/08/08

講師:鏑木行廣氏


講師の鏑木先生は,佐倉惣五郎の研究を15年にわたり続けられ,更に各地に祭られた宗吾信仰について現在までに30か所余り把握され,その内20か所を踏査されている。

義民として名高い惣五郎の伝承は,さまざまな物語として伝えられているが,中でも広く知られているのは「地蔵堂通夜物語」である。
惣五郎の実在については長い間論争が続いてきたが,昭和33年に刊行された児玉幸多氏の『佐倉惣五郎』(吉川弘文館刊)で,惣五郎という上層の農民がいたことが史料により証明されている。

また,事件の時期や起因についても諸説がある。時期については承応年間説,正保説,寛文説などがあり,起因については,過酷な年貢,利根川の付け替え,隠し田摘発のための検地,千葉氏再興などの説 がある。

講演では,これらの問題を史料に基づき具体的に説明された。
まず実在については,事件後に惣五郎の屋敷地が一旦親類に渡り,後に大半が惣五郎の子孫に戻ったこと,時期については,幕府が四代将軍の頃であり,なおかつ堀田氏が佐倉藩主の時代であることを考えると,やはり承応年間と考えられること,さらに起因については公津村の分村が重要であると強調された。

公津村は承応2年に台方・下方・江弁須・大袋・飯仲の5か村に分村され,翌3年の検地により157石増の1338石となった結果,年貢量が増えたことを史料で示された。分村の動きが起こった時点で,年貢負担の増加を恐れて惣五郎が何らかの行動を起こしたことは,十分考えられる。
なお,直訴であったか否かは関係する資料が確認されていないので明らかでない。

惣五郎が義民として一般に広く認識されたのは,堀田氏の対応と芝居の影響によると考えられる。堀田正信は惣五郎を慰霊するため,承応3年に大佐倉村の将門山に石の鳥居を寄進している。その後の佐倉藩主稲葉氏家臣磯辺昌言が著した『総葉概録』には,堀田氏を恨んで死んだ惣五郎の怨霊の記載もある。さらに,後の佐倉藩主が戒名や院号を贈ったり,惣五郎の子孫に土地を与えるなど,一領民に対する処遇としては,破格の扱いをしている。さらに嘉永年間の惣五郎芝居の大当たりを『藤岡屋日記』の記載を例に紹介された。

最後に各地に祭られた宗吾信仰について,一揆や訴訟の折に拠り所として祭った例等を体験談を交えて紹介された。伝承や史料の断片の中から史実を探求する喜びが伝わる講演会であった。

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