水野葉舟資料展
−押尾禎一氏寄贈資料から−

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最終更新日2006/12/20

展示場面の写真

 水野葉舟は,関東大震災後の1924(大正13)年2月,駒井野の開墾地に移り住み,1947(昭和22)年2月,この地で生涯を閉じた作家です。水野葉舟と親交のあった押尾孝のご子息の押尾禎一氏から水野葉舟関係の資料を市にご寄贈いただきました。押尾孝は,水野葉舟が成田周辺の文学好きの人たちと結成した「七葉会」のメンバーでした。寄贈資料によると,水野葉舟の親しい文人とも交流を持っていたことがわかります。ご寄贈に感謝し,寄贈資料から水野葉舟の関係資料を紹介します。なお,2007(平成19)年は,水野葉舟没後60年を迎えます。


展示場面の写真「高村光太郎のはがき」1943(昭和18)年6月24日水野葉舟宛
−説明文−
自筆のスケッチは「チマキ」。
「某月某日」は,まだ本が出来ていないので送れずにいます。製本所の都合でひまどつているやうです。「隣人」の校正刷りが早くできればいいと思っています,出たらすぐ装幀を君宛に送ります,(「ゐ」は「い」としました。)
 文中の「隣人」は、葉舟の小品集で1943(昭和18)年8月に刊行された。光太郎は追悼文の中でも,水野君の小説集小品文集は大てい私が装本したと記している。
展示場面の写真 展示場面の写真水野葉舟歌碑 −説明文−
 展示資料の「水野葉舟先生歌碑建設趣意書」は,1953(昭和28)年12月の日付であり,同じく発起人会の写真は,1955(昭和30)年とある。関係者のご苦労があって,除幕式は1957(昭和32)年4月28日に行われた。写真は,左が当日の窪田空穂と前田晁,右が挨拶をしている窪田空穂。(押尾家アルバムから)碑は,三里塚第一公園(現三里塚消防署脇)に建立されたが,1981(昭和56)年3月25日現在の三里塚記念公園内の貴賓館前に移され,春駒の碑と並ぶ。

展示場面の写真高村光太郎書「滴瀝」 −説明文−
 この書は,初版『滴瀝(てきれき)』の題簽(だいせん)のために光太郎が葉舟に書き送った2枚の内の1枚。葉舟から押尾孝が直接頂いたものという。寄贈資料の初版「滴瀝」は11番で,押尾孝君へとあることから,葉舟との信頼関係が深かったことがうかがえる。
展示場面の写真『滴瀝(てきれき)』『歌集滴瀝』
 −説明文−
 水野葉舟が駒井野に移住後の歌集。最初の歌集『明暗』が1906(明治39)年に出された後,34年目にしての第二歌集。題簽(表題紙)と装画は,高村光太郎。1940(昭和15)年9月,草木屋出版部から刊行された。手漉き和紙を使い,箱入り。150部の限定で,関係者に配られたものと思われる。第一部,第二部,第三部の構成で,325首からなる。第一首目が,1958(昭和32)年に建立された歌碑に刻まれている。最晩年に自ら改訂増補した歌集が戦後計画されたが,刊行に至らなかったものの,その原稿をもとに1972(昭和47)年『歌集滴瀝』が刊行された。

展示場面の写真高村光太郎詩碑 −説明文−
 1972(昭和52)年6月26日,現在地(三里塚記念公園の貴賓館前)に立てられた。碑面は,光太郎の自筆原稿を拡大した銅版がはめ込まれている。碑陰には,草野心平による,「大正13年春 高村光太郎は この地に生涯の友水野葉舟を訪い 三里塚農場に遊んで 詩春駒を作った。(略)」が刻まれている。「春駒」は,1924(大正13)年4月13日付け朝日新聞に掲載された。詩は,「三里塚の春は大きいよ」と,下総御料牧場を歌っている。

展示場面の写真高村光太郎「春駒」詩稿 −説明文− 1981(昭和56)年10月24日,三里塚御料牧場記念館の開館記念として復刻されたもの。(当館資料)


展示場面の写真
「掛け軸」

写真左 読み
「あさやかに土にかけあり初夏の 若葉かゝやきこの子祝はる 葉舟」

写真右 読み
「朝はとかほろほろと鳴きいつれは おのつから霜かとけてくつるゝ 葉舟」

展示場面の写真「色紙等」
読み
「六月の夜の冷えを肌に感しつゝおほかさかふる月みてたてり 葉舟」

展示場面の写真「春」 水野葉舟自作の歌抄出
 −説明文−
 自作の「寒鴉」から春の歌を抄出したもの。『歌集滴瀝』の山田清吉氏解説によると,初版『滴瀝』の「第二」の稿本と思われる歌稿「寒鴉」の上下二冊が残されていて,「上」は1935(昭和10)年5月,「下」は1936(昭和11)年9月とある。巻末に「寒鴉のうちより春の歌を抄す 十一年四月 葉」とあり,14首が書かれている。上記の解説には,「下」の書き出しに,「昭和十一年の春のころより,うたのおもしろさ,また心をおどらしはじむ。」とあり,ちょうどその時期のもの。

展示場面の写真「會人」 −説明文−
1943(昭和18)年から1947(昭和22)年4月まで,9回の集まりの記録。内5回が郷土談話会の記録。1943(昭和18)年11月7日が第48回,1944(昭和19)年9月24日が第53回,1945(昭和20)年9月16日が第54回,1946(昭和21)年4月28日が第55回,1946(昭和21)年10月13日が最後で第56回。54回目は,酒々井町押尾孝の家で開いている。出席者は,篠丸頼彦,多田和三郎,押尾孝,押尾源蔵,山田房子,篠田定吉。1943(昭和19)年と1945(昭和20)年・1947(昭和22)年に,押尾孝の関係した鉄道文化の会等の記録がある。

展示場面の写真1936(昭和11)年11月20日付 七葉会12年の「さそり」の発行について
 −説明文−
 「さそり」は,七葉会の手書きの回覧雑誌。七葉会は,1932(昭和7)年に行方沼東の発意で,葉舟を迎え成田の文学好きの若い人たちで発足した。当初は,集まりの記録等を「千葉毎日新聞」に掲載していた。その後,新聞掲載が思わしくなくなり,「さそり」を1934(昭和9)年1月に発行し,1941(昭和16)年の31号まで続いた。資料は,発行後丸3年を経過した段階で,会員に刷新を呼びかけている。

展示場面の写真水野葉舟書簡 1936(昭和11)年11月11日付 押尾孝宛
 −説明文−
 寄贈資料の葉舟から押尾孝宛の書簡は,年賀状を含め30通を数えます。その中で,「七葉会」・「さそり」は,頻繁に登場しています。この書簡は,押尾の「さそり」に対する意見の返事が書かれていて,便せん8枚の長いものです。最後に,
 「さそり」を母体として諸君が「進出」される事も,私の一つの祈りでした。これを少しでも実現していけるやうに努力したいと思いますよ。中央へ,そして社会的に鮮明な仕事へ。
と,あります。(資料は,1・8枚目を複写したものです。)

展示場面の写真「さそりの会」1943(昭和18)年1月10日 押尾孝帰還歓迎の集合写真
−説明文−
写真は,水野家・押尾家に伝わる。押尾孝の記録により,歓迎会と判明。
葉舟自身の記録
「前列 染谷四男也君 甲田健之助翁 押尾孝君 水野 平松白臣君
後列 永野龍照君 後藤義則君 田中実君 篠田定吉君 勝又坦治君」
会場は,勝又宅。(氏名は,写真右から)



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