資料名豊年の秋 源田渡船(1)(渡船と自動車、積み荷の運搬)
副書名風景(川・河岸・船・駅・行事)
富澤氏の
キャプション
豊年の秋 源田渡船
著者名富澤庸祐
出版者-
作成年-

解題

大堤防ができたため、道が護岸近くまでのび、茨城方面から農舟(通称サッパ舟)で運ばれてきた米などをトラックに積んでいる写真である。1949(昭和24)年1月30日、金江津渡船が突風のため小、中学生を含む26名の犠牲者を出す痛ましい転覆事故があった。この事故により渡船業務の近代化が求められ、軍の鉄船を払い下げ、機械線が運転されるようになり、海運局の指導で船が整備され、1959(昭和34)年、常総企業組合が発足し、事務所を下総町役場において運営された。客船(5t)2艘、台船2艘、荷船1艘であった。自動車が多くなると、客船(渡船)に自動車を載せた台船を綱で結びつけ曳いて渡るようになった。1967(昭和42)年、永久橋神崎大橋が開通して不要になった神崎船橋を買収して渡船場地点に架橋した。これが常総船橋であった。渡船ともども茨城県営となった。全長263m、幅4m。台船状の鉄船20艘を一定の間隔に置いて連ね厚板を敷いて作られていた。徒歩は無料で、自転車、自動車などは有料であった。利根川が増水する6月15日から10月15日までの期間は、危険なため取り外され、その間は渡船で往来した。取り外された船はその期間、下流の佐原にある国土交通省関東地方整備局利根川下流河川事務所のドッグに繋留されていた。この船橋は、今の全長518.2m、幅員11.5mの常総大橋が開通する1979(昭和54)年2月13日まであった。なお、前述のように源田(源太)渡船場は、かつて源田(源太)河岸のところで、江戸後期に刊行された『利根川図誌』には、その河岸の挿絵が載っていて、当時の様子を知ることができ貴重な資料となっている。その挿絵には、船宿(回船問屋?)2軒(「むさしや」「さハらや」)をはじめ、その他の家並みと行き交う人々、客を乗せた小舟、停泊している高瀬船、手前に大きな帆を立てて走る利根川高瀬船3隻、少し離れたところに「ナメ河クハンヲン」(滑河観音)と菊水山、遠くに長沼などが描かれている。ちなみに、猿山の河岸の名の源田(源太)は、むかし源太という渡し守がいたのに因んでいるというのが通説。源太は地名ともなり、やがて源田と併用され、「源田村」は近世の古文書や墓石に散見できる。

(島田七夫 事務局にて一部編集)

NSIN(書誌ID)DL20151000530
種別写真
細目写真
ページ数1枚
大きさ(縦×横)
資料群名富澤庸祐アルバム
目録番号黄-23-58
撮影年月日2014/01/17
掲載枚数1枚
備考
所蔵成田市下総歴史民俗資料館
分類748
件名
件名(成田)成田市-富澤庸祐
キーワード(成田)
地域コード9N
郷土分類748